映画は視覚的かつ聴覚的な表現メディアないし藝術領域に含まれると言ってよいが、映画というジャンルの原理的な特徴は、その物理的支持体であるフィルムが、映像を収めた部分とサウンドトラックと呼ばれる部分の並行関係から成り立っているという点に求められる。映像部分は、文字通りカメラによって捉えられた像が、いわゆるコマという単位によって構成されているものであり、サウンドトラックとは、台詞や効果音などの音および音楽をフィルム上に記録したもののことである。この並行して走る2つの部分を持ったフィルムが、一秒間に24コマの速さ(サイレント時代は16コマ)でスクリーンに映し出されることにより、映画というジャンルが成り立っている。もちろん、音や音楽(さらには映像)をフィルム上に記録しなければならないというわけではなく、別の媒体を用いて構わないのであるが、その場合でも事情は変わらない。つまり映画にあっては、視覚情報(映像)と聴覚情報(台詞を含めた音声・音楽等)は、それぞれが独立性を保って並行状態を形成しつつ、相互に関係し合うものとして扱われているのである。このような映画のあり方が、一般に映画音楽と呼ばれているものの土台に横たわっている。
ここで劇映画の場合を考えれば、サウンドトラックに含まれるものとしての台詞は、映像部分に収められ得る登場人物などの振る舞いに関係づけられ、同じく効果音もまた、映像部分に収められ得る事物や出来事に関係づけられる。それゆえ、台詞や効果音は映像の進行と原則として同調させられることが求められることになる。つまりそれらは、スクリーンに映写される映像世界の中に――もちろんこの映像世界は、現にスクリーンに投影されているものに限定されず、フレームの外へと広がっている――基本的には包含されるのである。これに対して、いわゆる映画音楽は、サウンドトラック内に自足し得るものとして位置づけられる。スクリーン上に音楽を奏でることのできるものが映し出されていなくとも、また、その一連の場面内に音楽を演奏することのできるものがなくとも、音楽は映像に付加され得る。音楽はサウンドトラックに錨を降ろしているがゆえに、映像から距離を取ることができ、そのため、映像に対して外側から何らかの働きかけを行なうことができるようになるのである(言うまでもないことだが、映像と音ないし音楽の並行関係が、外国映画やアニメーション映画などの吹き替えや、さらにはサントラ盤と呼ばれる商品を可能にしている)。
このように、映画というジャンルにあっては、音楽は映像と対等な関係を保つことができるように按配され得るわけであるが――このことは台詞や効果音には基本的に不可能である――、このようなあり方が音楽に独自の役割を担わせることとなる。それが映像世界において進展する物語と観客との間の橋渡しないし距離どりという役目である。劇映画にあっては、大抵の場合、主人公となる人物あるいは中心となる出来事が存在し、その人物や出来事をめぐって映像世界の物語が進展してゆく。したがって、物語の基軸となるものが映像の側に存在するとすれば、映像と対等関係にある音楽もまた、中心軸となるものを持つことが要請される。それがいわゆるテーマ音楽と言われるもの、すなわちメイン・テーマと呼ばれる音楽である。この音楽は、映像世界の物語の進行において核となる人物や出来事に関連した響きやメロディを形成し、物語の展開に寄り添ってゆく。通常、映画音楽と言えばこのテーマ音楽ないしメイン・テーマを指している。もちろんここで言うメイン・テーマとは、興行を視野に入れたタイアップ曲、つまり、映画の宣伝を主たる目的とした曲、したがって物語そのものの進展とは関係を持たないことがほとんどである音楽とは異なり、映像世界の中心軸と関係づけられるがゆえに、映画の内容そのもの、正確には、映像が呈示しようとしているものの実質、あるいは、その表現実質を支えているものに関わるような音楽を言い、それゆえそのような音楽は、映画の冒頭(および最後)に流れるのが通常である。
しかしながら、ここで急いで言っておかなければならないことは、音楽はたしかに映像世界の外に立つことができ、映像と対等な関係を取り結ぶことができるけれども、イニシアティヴは映像が持っているという点である。何らかのかたちで音を用いない音楽など存在しないのと同じように、映像を用いない映画は存在しない。映画において最も本質的であり、最も重要な局面は映像なのである。とすれば、音楽における音、耳に聞こえる響きが沈黙を内に宿し得るのと同じように、映画における視覚イメージ、目に見える映像は、目に見えないものをおそらく呈示することができる。映画にあっては、何らかの仕方で映像が示し得ないものはないと考えられるであろう。とすれば映画は、音楽の助けを借りずに映像だけで成り立ち得るはずであるし、また、そうでなければならない(上述したように、台詞や効果音はすでに映像世界の中に包含されている)。映画はいわゆる映画音楽を用いなくとも十分に映画たり得るのであり、この点で音楽はまさしく映像に付随する。映画音楽とは映像付随音楽のことなのである。
したがって、ポイントになるのは、映像に対する音楽の立ち位置、映像への音楽の距離の取り方になる。映像が音楽を主導してゆくがゆえに、つまり、映像において示されるものによって音楽が、大きくかつくっきりと枠づけられるがゆえに、音楽は映像との交わり方にいわば工夫を凝らさなければならい。とすれば、映像世界の中心軸に対応するメイン・テーマの取り扱い方が焦点となるだろう。映像の進展に応じて、その物語の進行に即して、メイン・テーマをそれにふさわしい姿に処理してゆくこと、これが肝要なこととなろう。より正確に言えば、映像が呈示する意味に見合った姿に、映像の佇まいにふさわしい姿に、音楽を変形ないし展開させることによって、つまりテーマとその変奏というスタイルによって、登場人物の内面を代弁したり、状況の雰囲気を伝達したり、人々の多様な振る舞いに意味のまとまりのようなものを与えたりしてゆくこと、これがメイン・テーマの映像との関わり方となる。そうすることで音楽は、映像との距離を測ってゆく。このことはしたがって、観客と映像との間の距離をコントロールするということにもなろう。言葉を換えれば、映像に対する観客の構えのようなものを縁取るのであり、この意味で物語の橋渡し役となるのである。映画にあって、それもとりわけ劇映画にあって、音楽は私たち受け手の映像に対する構えを粗書きするものと言うことができる。
映像と音楽のこのような関係を、ある意味で純粋に表わし得るのが、ドキュメンタリー映画(記録映画)の場合である。ドキュメンタリーは、記録資料としての映像、つまり大なり小なり歴史の断片として切り取られたドキュメント映像を、一つずつつなげてゆくことから成り立っている。したがって、そのドキュメントの集まりにまとまりや意味の統一を持たせることが必要不可欠となってくるが、音楽がその役目の一翼を担うことになる。個々の記録映像という一つひとつの真珠をつないでいって、それをネックレスに仕上げるのが、音楽に課せられた仕事の一つと言えるだろう。