時間について


 古来、時間とは何かという問題に人々は頭を悩ませてきた。たとえば中世初期のラテン教父アウグスティヌス(Augustinus, 354-430)は、『告白』第11巻第14章で、時間とは何かと人から問われなければ知っているが、人から尋ねられて説明しようと思うと知らないのだ、と語っているほどである。この言葉は非常に有名で、少なくとも時間を論じている書物、それも哲学的な書物では必ずと言ってよいほど引き合いに出されるものである。ここで彼の時間論を詳述することはできないが、彼が言わんとしているのは、時間は私たちが言葉で説明することはできないが、実感として知っている何かだ、時間は少なくとも理性による分析の対象ではなく体験のレヴェルで把握されるものだ、と解することができよう。実際、私たちは日常生活において、時間あるいは時間の推移を身をもって感じ取っている。私たちは「昔はこうだった」と懐かしさに浸り、「あれこれ考えずに今はやるしかない」と決意を新たにし、そしてまた、「将来こうなりたい」という希望を持つが、こういう思いあるいは感情はすべてその根底において時間と関わっている。また、久しく会わなかった友人と再会したとき、「変わらないなあ」とか「変わったなあ」という感慨を抱かせるのも時間がそこに介在しているからにほかならない。このように、さまざまな人間の心の動き、あるいは、諸々の現象の間の落差に注意を向ければ、そこに私たちが時間と呼び習わしているものが姿を現わしていることが分かる。ただしこのことは観点を変えれば、時間は抽象的だということでもある。つまり、私たちはそもそも時間を見たことも聞いたこともなく、ましてや触ったこともないのに、それでも時間を実感することができるのである。先のアウグスティヌスの捉え方は、このような「時間」のとらえどころのなさを端的に言い表わしているとも言えるであろう。それゆえ、時間について考察をめぐらすとき、導きの糸となるのは私たちの実感や体験さらには常識をおいてほかにない。このような観点からまず時間について言うことができるのは、時間にはいろいろな顔があるということである。

 まず、時間の一つめの顔としては、時計によって計ることができるという顔がある。つまり、時間は重さや長さと同じく物理量として測定可能なものである。このことは単位を持つことができるということを意味している。長さの場合はメートル云々、重さの場合はグラム云々という単位があるが、時間の場合はそれが分とか秒、さらには日、月となる。物差しや巻き尺が長さを計る道具であるのとまったく同じく、時計は時間を計る道具ないし装置であり、この単位を持つという点で時間は客観性を持ち普遍性を手に入れるのである。時計によって計られるこのような時間、これが物理的時間(時計の時間)と呼ばれるものになる。

 ここでたとえば、「新大阪から東京まで新幹線で2時間半かかる」という場合を考えてみる。この「2時間半かかる」という言い回しは、言うまでもなく移動に要する時間量を示しているが、この時間量は移動距離に換算される。仮に平均時速を200キロとすると、時速は1時間に空間内の位置を移動する距離の値で示されるので、移動距離は500キロとなる。ここで大切なのは、500キロという数値ではなく、時間が空間に変換されるということ、物理的時間が空間と関連性を持つという点である。空間について、ここでごく基本的な点を確認しておけば、私は今自分の研究室という空間の中にいる。この空間の中には机や本棚やパソコンなどのいろいろな事物があるが、それらの事物は互いにそれぞれの場所を占めて存在している。つまり、空間とはまず事物が並置される場であると言うことができる。また、私は日々自宅から職場へと向かい、そして職場から自宅へ帰ってくるということを繰り返している。空間にあっては、ある場所から別の場所へ何回でも行ったり来たりすることができるのであり、空間は反復可能性および可逆性を特質として有している。他方、物理的時間にあっては、あるときの1時間と別のときの1時間は常にその長さが等しくなる。すなわち、1時間という時間量はいついかなる場合でも一定不変であり、したがって反復可能である。そのため時計の針は何回でも文字盤の同じ位置を指し示すことができるのであり、またそうでなければならない。この反復可能な量としての時間という点で、物理的時間は空間へと開かれ、空間とつながることになるのである。さらにまたこのことは、物理的時間はいわば無色透明であり、その中身が質的にすべて一様な時間、等質的な時間であるということを意味する。だからこそ物理的時間は記号化され、グラフとか表で客観的に図示されるのである。物理的時間は実は空間化された時間なのだと言うことができよう。

 ところが、今述べた等質的な物理的時間を私たちが実際に体験するという段になると、時間はまったく違った色合を帯びる。たとえば1時間を例に取ると、何か仕事や勉強あるいは遊びに夢中になっている場合、1時間など本当にあっという間に過ぎてしまう。時の経つのも忘れて、などと言うが、気が付いたらもうこんな時刻になっていたという体験は誰にでもあるだろう。これに対して、同じ1時間でも、何もすることがなくて暇を持て余しているときなど、1時間という時間は遅々として進んでくれない。量としては同じでも、その1時間を実際に体験する場面になると、体験の仕方に応じてそこに質的な差異が生じ、心の中で感じ取られる時間の進み具合に変化が生まれることになる。私たちが普通に使う書葉を用いれば、間延びした時間は遅く進み、密度の濃い時間は速く進むことになるのである。心の中で感じ取られるこのような主観的な時間を心理的時間と呼ぶならば、それは時間の進み具合の遅速に関わるものと言うことができる。これが時間の2つ目の顔である。

 ここで再び「新大阪から東京まで新幹線で2時間半かかる」という例に戻ってみよう。これが実際には大まかな空間的移動距離を示したものだということは先ほど述べたが、これは別の角度から言えば、実はその2時間半という時間の具体的な内容が捨象されてしまっているということでもある。よく不動産物件で駅から徒歩5分というような公告があるが、「徒歩5分」という表示があれば「これは近い」という空間的イメージが先に立って、その5分を実際に歩いてみるときの体験が抜け落ちてしまいがちになるのとまったく同じく、東京と新大阪を分かつ距離が一挙に飛び越えられてしまっている。しかし、東京と新大阪の隔たりを実際に経験するには、新幹線に乗らなければならない。そのときはじめて、2時間半という時間が体験される。そうすることで、無色透明で等質的な時間が長く感じられたり、短く感じられたりする主観的な心理的時間へと変容するのである。つまり、新幹線に乗ったときの車内でのさまざまな振舞い――本を読んだり、眠ったり、食事をしたり、あるいは窓の外の景色を眺めたりといった振舞い――、それが物理的時間に質的差異をもたらし、それによって時間の進み具合が私たちの心の中でいろいろに感じられることになる。このように、私たちが何かしらの振舞いをするそのことが、無色透明な等質的時間に濃淡をつけ、それが私たちの心に立ち現われてくる。したがって、私たちの振舞いそのものが、心の中で感じ取られる心理的時間の有り方を支えていると考えることができる。しかも、何らかの振舞いをすること、それは私たちが生きていることの証しと言ってもよいものである。とすれば、私たちがこの世界で生きて生活しているまさにそのことが、物理的時間を質的に差異化してそこに時間の濃淡を生み出しているのだということになろう。それゆえ、主観的な心理的時間とも客観的な物理的時間とも位相を若干異にする時間があることになる。それを「生きられる時間」と呼ぶことにするならば、この生きられる時間は、私たちが生きて生活していることと切り離すことのできない時間、「私たちが何らかの振舞いをしたり――あるいは、何らかの構えを取ることによって――立ち現われる時間」であり、主観的な心理的時間の底に透けて見える時間だと言ってよい。生きられる時間は、人々すべての生を根底において支えかつ規定している時間、私たちすべての存在を貫いている時間なのである。したがって、私たちの人生が一度しかなく、繰返しがきかないのとまったく同じ意味で、生きられる時間はそれを繰り返すことができない。東京と新大阪という空間内の場所の移動は何回でも繰り返すことができるが、生きられる時間は、反復ができず後戻りがきかないのである。「後悔先に立たず」とか「後の祭り」などという言い回しがあるが、生きられる時間は不可逆なのであり、この点で空間性とまったく相容れない時間だと言うことができよう。

 ここで心理的時間と生きられる時間の関係をより厳密にしておこう。不可逆であるという点では心理的時間も同じであり、それゆえ空間性と無縁である。時間とはその不可逆性において、端的に「生きられるもの」なのである。心理的時間は、私たちの振舞い――ないし、何らかの構え――を通して立ち現われてくる生きられる時間を心の中で感じ取る際の、その感じ方をクロースアップしたものなのであり、生きられるしかないものとしての時間の心理的現象形態にほかならない。したがって、この2つが本質的に截然と区別されるわけではない。このように心理的時間を生きられる時間の一形態と考えれば、時間には大きく物理的時間と生きられる時間の2つの顔があることになる。この2つの顔のうちどちらがいわば時間と呼ぶにふさわしいのかと言えば、それはこれまで述べてきたことからも分かるように、生きられる時間である。私たちが時間の実質として了解し、根源的な時間、あるいは本質的な時間として感じ取っているのは、「生きられる時間」のほうだと言うことができよう。